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トップページ > 地域情報紙 > トップインタビュー(vol.100)
今月のトップインタビュー

  市長が青春を語っても
       いいですか?


               富士市長  小長井 義正



   青春とは人生のある期間をいうのではなく、
       心の様相をいうのだ ――

        Youth  is  not   a  time  of  life ;  it  is  a  state  of  mind  ――

             サミュエル・ウルマン 『青春』 より (邦訳・岡田義夫)



FacetoFace100top5FacetoFace100top1念すべき100号を迎える本紙のトップインタビュー、今回登場するのは皆さんご存知、現役の富士市長である小長井義正さんだ。とはいえ、取材で主に伺ったのは、定型的なご挨拶や個々の政策についての解説ではない。それらは市の広報紙にお任せするとして、ここではあくまで小長井さん一個人としての経験や思いについて、ざっくばらんに語っていただいた。その中で何度も出てきたのが、「青春」という言葉。還暦を目前に控えた小長井さんが語る青春とは、当然ながら辞書的な意味とは一線を画す。決して全てが順風満帆ではなかったという半生で培われた哲学は、しなやかで強い。富士市役所8階の市長室は誰でも気軽に立ち入れる場所ではないが、今回は小長井さんの人柄のおかげか、取材中は実に心地良く、そして熱い空間だった。



 市長はまちを売り込む営業マン



 まずは施政方針について…という質問はあえていたしません(笑)。動画サイト『YouTube』で小長井さんがギターを弾きながら歌う映像や、ステージでダンスを踊る姿を拝見しました。歌って踊れる市長さんなんですね。

 「そこから来ましたか(笑)。ギターを弾いて歌っているのは、富士山の世界遺産登録1周年を記念して富士山ネットワーク会議に加盟する県内東部5市町の首長が文部省唱歌『ふじ山』を歌った時のものですね。ステージで踊っているのは去年の富士まつりで行ったフラッシュモブと呼ばれるパフォーマンスです。清掃員や警備員に扮したダンサーが突如踊り出して、そこに私や市の職員も加わるというサプライズ演出だったんですが、なかなか評判も良かったです。もちろん私が自分から歌わせろ踊らせろと言ったわけじゃありませんよ(笑)。市長はまちを盛り上げて魅力を発信する営業マンだと思っているので、面白いアイディアがあって、皆さんに求められれば、可能な限り露出していこうと心がけています。ギターは中学生の頃から趣味として続けてきました。市長選以降は忙しくてしばらく休んでいますが、同世代の仲間達とおやじバンドを結成して、定期的にライブもやっていたんですよ。私にとってギターは青春の象徴のようなものですね。」


 青春!そういえば、小長井さんは「青春」というキーワードを様々な場所で掲げていらっしゃいますね。抽象的ともいえるこの言葉をあえて前面に出している理由は?

 「詩人の相田みつをさんの『一生感動 一生青春』という言葉が好きで、かつてマッカーサーが座右の銘にしていたというサミュエル・ウルマンの『青春』という詩についても、以前から知っていました。青春というのは年齢や立場によって限定されるものではなく、気持ち次第でいつまでもその時代は続くんだという考え方です。自分の信条を表すものとして、この言葉を前面に出していきたいという思いはずっと持ち続けていました。市長として具体的な政策を打ち出して実行していくのと同時に、市民の皆さん一人ひとりに元気になってもらうことが大事だと思っています。要するに、青春という言葉によって皆さんの気持ちを鼓舞したいんですよ。私がよく引き合いに出すのが浜松の『やらまいか精神』で、とにかくいいと思ったことはなんでもやってみよう、挑戦してみようという考え方です。地域性の違いもありますが、行政でも企業でも個人でも、まずは挑戦してみて、それでもしダメでも次につながる何かが残るじゃないか、というくらいの気持ちやムードをまち全体に広めていけたらと思っています。富士市では現在、市民の積極的なチャレンジを分野を問わず募集して表彰する『青春大賞』という取り組みを行っていますが、この運動もその一環です。精神論的なものですが、私はまちを元気にするためにこういうアプローチがあってもいいんじゃないかと思います。」


 政治の世界へ進もうと思ったきっかけは?

 「昔から市議会議員や市長を目指していたわけではありません。家業の米屋を継ぐために東京から富士に戻ってきて、青年会議所(JC)に7年間在籍していたんですが、そこでまちづくりや青少年の健全育成について熱く語り合う中で、市政に対する関心が高まっていきました。JCは40歳で卒業する規定なので、その後は『まちづくりサポーターズクラブ』という任意の組織を立ち上げて、40~50人くらいの勉強会を定期的にやっていました。そこで次のステップとして、実際に政治や行政に意見を反映させていこうじゃないかという話になり、私に白羽の矢が立ったわけです。ちょうどその時に市議会議員の補欠選挙があって、地盤・看板・鞄、どれも持っていなかった私が当選できたのも、その時々のタイミングやご縁があったからだと思います。もちろん選挙に出ることは大きな決断で、当時はまだ家業と並行していましたし、家族の理解を得ることも大変でした。それでも富士市をより良いまちにしたいという思い、また自分自身の人生として新しい世界に踏み出して挑戦してみたいという思いもありました。当時の富士市はまだ財政的にも豊かで、差し迫った課題も多くはありませんでしたが、その一方で、市民レベルで問題意識を持って市政に参加しようという動きは、まだまだ少ない時代でしたね。」



 挫折あり 後悔あり だからこそ分かる
 挑戦することの大切さ



 一般的な青春時代として、10代20代はどのように過ごしていましたか?

 「中学の頃は部活で野球をやっていて、ポジションはキャッチャーでした。趣味のギターを始めたこともあって、ディープ・パープルやサンタナなど洋楽のロックバンドの曲をよく聴いていました。高校では勉強とスポーツを両立させる自信がなくて、野球部の顧問からのお誘いも断ってしまったんですけど、勉強に専念したはずが、現役時の大学受験では志望校に落ちてしまいましてね。一年間浪人生として東京の予備校に通いました。挫折感と浪人生の悲哀を感じながら過ごした時期ではありましたが、同じく浪人して東京で暮らすことになった高校時代からの仲間が何人かいて、そこでは本当の友情を交わすことができました。住む場所も予備校もバラバラだったので、月に何度か集まって、勉強以外にもいろんなことを語り合って、『またお互い頑張ろうぜ!』という感じなんですが、まさに苦楽を共にした親友です。当時はフォークバンドが全盛の時代で、吉田拓郎やかぐや姫もよく聴きましたが、それこそ神田川のほとりを仲間と一緒に語りながら歩いたものです。気持ちも立場も不安定で常に揺れているけど、心は活発で濃密な時間。もしかしたら、それこそが青春なのかもしれませんね。今となってはこの浪人時代に本当にいい経験をさせてもらったと思っています。」


 その後の大学進学、商社への就職、そして富士市への帰郷という経緯は?


 「幸いにも浪人生活からは1年で解放されて、志望校に進むことができましたが、大きな目標を果たしたことによる達成感のせいか、逆に大学時代は次に自分が目指すべき方向を見失っていた時期だったかもしれません。準硬式野球の部活もやって、クラスでもいい仲間にも恵まれましたが、その後の人生のために何をやれたかという視点で振り返ってみると、もっと勉強しておけばよかったなという後悔もあります。そんな中、スケールの大きなビジネスで、世界を舞台に活躍したいと思うようになって、就職は商社に絞って活動しました。入社したのは当時のニチメンという大手商社の一角で、鉄鋼原料部という部署に配属になりました。顧客となるのはまさに国策を担う製鉄会社で、営業活動は本当に大変でした。多忙な東京での生活や語学の習得などにも苦心しながらも、人との付き合い方など多くのことを学ぶことができたやりがいのある仕事で、商社では8年半働きました。その後地元に戻って家業の米屋を継ぐことにしましたが、会社で知り合った妻には『公約違反』で申し訳なかったと思っています(笑)。実家の両親も私が富士に帰ってくるとは思っていなかったようですね。」


 過去の職歴や経験の中で、今の仕事に活かされている点は?

 「何億円というビジネスを扱う商社から10円単位の商いをする米屋に転身したわけですが、基本は同じで、とにかくお客様の満足が第一だということです。どうすれば顧客満足度を上げることができるか、どれだけ自分を気に入ってもらえるかということを常に考えてきましたし、顧客満足を市民満足に置き換えれば、市議会議員や市長という仕事も全く同じだと思います。私は常々『行政は最大のサービス業である』という言葉を口にしています。職員にもそのことを理解してもらい、行政は市民のためにあるという意識をより一層浸透させていきたいです。私の経歴は少し異色かもしれませんが、目の前の課題や問題意識に対して真面目に向き合いながら、自分自身で道を切り拓いてきたという自負はあります。地元に戻ってまちづくり活動に関わる中で、結果的に市長という立場になりましたが、ようやく天職に巡り会えたと思っています。うまくいかないからコロコロと仕事を変えるということではなく、石の上にも3年という言葉もある通り、一つのことに専念してそれに生涯をかけていくという生き方も素晴らしいと思いますし、すぐに天職に巡り会えれば最高です。ただ、特に若い人に伝えたいのは、もしそうでなくても、周りの人への筋はきちんと通した上で、じっくりと見極めながら何度でもやり直して、挑戦すればいいんだということです。」


 最後に、富士のまちについての率直な思いをお聞かせください。

 「人口減少や公共施設の老朽化、長引く地方経済の低迷など、厳しい状況ではありますが、私はこのまちが持っている潜在的なパワーはこんなものじゃないと思っています。優秀な企業や人材が豊富で、富士山フロント工業団地の完売という実績が示す通り、首都圏へ交通アクセスやインフラでも有利な環境にあります。また今年の夏に公表予定の海抜0メートルからの富士山登山ルートの策定や富士山しらす街道など、魅力ある観光資源も新たに生まれています。政策としてはこれらを後押ししながら、防災対策や子育て支援も含めた取り組みを行っていきます。いずれにせよ最終的に目指すのは、市民の皆さんがこのまちに愛着を持って、住み続けたい、帰ってきたいと思えるようにすることです。そのために、私は今後も市長としてできる限りのことをやる覚悟ですが、やはり本当の中心になるのは私ではなく市民の皆さんですから、新しいことにチャレンジする気持ち、地域を元気にする活動を持続しながら、誰もが生涯青春を謳歌できる明るいまちを目指していきましょう!」




小長井 義正
(こながい・よしまさ)

 富士市長
 1955(昭和30)年7月30日生まれ(59歳)
 富士市平垣本町出身・在住

富士第一小、富士中、富士高校から一橋大学商学部を経て、ニチメン株式会社(現・双日株式会社)に入社。鉄鋼原料部などに所属し、大手商社マンとして国内外の取引先を奔走。1987(昭和62)年、富士市に帰郷し家業の小長井米店に従事。富士青年会議所(JC)や任意団体『まちづくりサポーターズクラブ』などの活動を経て、1997(平成9)年の富士市議会議員補欠選挙で初出馬・初当選を果たす。以後5期途中までの15年6ヵ月にわたり議員を務め、市議会議長などを歴任。2013(平成25)年の富士市長選挙に出馬し、当選。翌年1月に市長に就任し、現在に至る。座右の銘は『知行合一』。趣味はギター演奏やジョギング。二人の娘の父であり、三人の孫がいる。


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学生時代の小長井さん。「これぞ青春!」といわんばかりの70年代的(?)ポートレート。


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商社勤務時代の1枚。黒電話とタバコが時代を感じさせる。ちなみに現在は「卒煙」済み。


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おやじバンドでエレキギターを演奏する小長井さん。(2008年撮影)
Tシャツにジーンズ姿、飛び散る汗も若々しい。

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